親の教育という選択肢

みなさん、こんばんは。馬場です。
全世界驚愕の更新間隔になりました。

なぜかというと、前回のブログを書いたときに内容と全く関係ない今回のタイトルのような言葉と共にfbでシェアしたら、「全く関係ないじゃないか!」と恩師から言われてしまいました。

確かに。

と、いうわけで今回は保護者について書いてみたいと思います。(僕も実は思うところがある。)


なぜ今、親なのか。

なぜ、親について何を書くのか、と。そんなもの必要なのか?と言われてしまうかもしれません。

しかし、教育にかかわる仕事をしている中で「いい生徒なのに、親が残念な家庭だなぁ。」と思ったことは悲しいことにありました。

塾講師時代、このことに関して僕はかなりドライだったと思います。

「別に、退塾させなきゃいいだろう。」あくまでも校舎の利益のために努力していました。(あと、家庭の教育事情に突っ込むのは学生風情がやるとクレームの元になると考えてた。)

しかし、親には教育を受けさせる義務があります。

僕は教育とは「環境を提供すること」だと考えています。だからその提供者の一人である親の議論は欠かせないのです。

悲しい親『ウチの息子はホント馬鹿で、、』編

この言葉、ホントによく聞くけど聞くたびに、

ふっざけんな!

って言いたくなります。(流石に言わない)
自分の息子の可能性を産んだ親が否定するなんてありえないでしょ。

それに、もしホントに馬鹿だとしたら馬鹿にしたのはどこのどいつだ!
学校?違うでしょ!!!!親であるアンタだぜ。

こういう親に限ってまた的外れなことを言う。

『この子宿題やらずに外で遊んでばかりで、、』

なにが悪いんだこの野郎!小学生なんて外で遊んでる方がいいんだよ!

宿題をやらないのは生徒の責任じゃなくて、教師が無能なだけなんです。(これマジで。教師やってて宿題やらない生徒を怒ってるそこのあなた。的外れもいいとこだぜ。)

もちろん、毎日宿題をやる程度の学習習慣なんて正直塾に行く必要皆無です。(両親が共働きだとかいうならしょうがないけど、実はそういう家庭の方が頑張って勉強を見る時間を作ったりしている。)

あと、このような保護者に多いパターンが、さっき出した宿題の例のように、なんでもかんでも子供のせいにする。
子供のせいにするのも許せないが、さらにはそのことで理不尽に怒りだす。

 

勘弁してくれ!!!!

 

それ俺らの仕事!!!!

 

子供は親の理想を叶える機械ではないですよ。
子供のやりたいことをやらせてあげましょう。

 

僕の考える理想の親像

さて、色々親についてぐちぐち言ってきましたが今度はどのような親が理想的か考えたいと思います。

エドワード・ザッカーバーグが僕の中で理想的な父親像と言えます。

誰だかお分かりですね、FBを作ったマーク・ザッカーバーグ父親です。

マークは四人兄弟ですが、実は他3人は女の子だったため「プリンス」と呼ぶほど可愛がっていたそうです。

しかし甘やかす裏に真の教育が潜んでいたのです。

 

-ある日-

マーク『パパ、バスケットボール欲しい。』

エドワード『どうしてだ?』

マーク『友達のジョンが買ってもらったって言ってたから。』

エドワード『それじゃあダメだ。』

 

-また別の日-

マーク『パパ、フェンシングを始めたい』

エドワード『どうしてだ?』

マーク『強くなりたいんだ』

エドワード『ようし、わかった』

 

-翌日-

エドワード『フェンシングの用具、買っておいたぞ』

マーク『ありがとう!』

エドワード『よし、ちゃんと頑張るんだぞ』

というエピソードがあります。

息子との対話を通して取捨選択を適切に行い、息子の本気度を確かめながら教育を施したのです。

他にも当時としては珍しいコンピューターに息子が興味を持ったらコンピューターの専門家を家庭教師として雇い、息子の好奇心を煽り、徹底的に環境を与えアシストして見せたのです。(そんなマークは一年で家庭教師を追い抜きます)

もちろん、このようなことをどの家庭もができるわけではないと思います。

しかし、僕は親と子の関係は教育においてこのように、『子供の知的好奇心を刺激する』ようにあるべきのように思います。

難題:親の教育意識改革

さて、ここからが難しい問題のように思います。

「この問題を親がどのように共有し、考えるか」だと思います。

現在「親のための教育ノウハウ共有会」みたいなものが開かれたとしてどんな人が集まるでしょうか。
おそらくエドワードのようなある種の知識人が集まるでしょう。

でもたぶんそういう会の目的はもっと違う層をターゲットとしているため結局目的を果たせない。
本末転倒のような状態に落ちいてしまうのです。
あまり抽象論に逃げるのは好きではありませんが、キーワードは「あるべきヴィジョンを見せ、共有する」だと思います。

これをよく現した例があります。
実は最近よく中学受験相談を受ける中で「大学受験がこの先変わるから、とりあえず大学附属の中学校に行かせたい」という話を保護者から聞きます。

この話を聞くたび「あー、なんも見えてねーなこの人。」と思います。
大学受験の変わり方を全く見えてない。

大学受験が変われば会社の就職等の環境と変わっていくと思わないのでしょうか?

それに加えて、とりあえず大学を出ておけば就職に困らないだろう、という短絡的な考え。

非常に残念ですが、大学を出ているからいい仕事に就けるわけではありません。
また、大学を出ただけで、安定した生活が得られないことは実は分かっている親もいるかもしれません。しかし「とりあえずここまですればよいだろう」という考えの元、子供が犠牲になる。

恐らくこういうことを言う保護者の多くは環境が変わることに対して、漠然とした恐怖感を煽られてしまっています。

それにより状況が見えていない、というよりむしろ見ない(目を背ける)という態度を取っているのでしょう。

このように保護者に対する啓蒙活動は必要なのですが前述のとおり、思いつく方法はどれも現実的ではありませんし、効率的でもないです。

あー!人生が2回あれば1回はもっと教育に充てるんだけどなー!
それくらい教育って難しい!!!