僕は幸福より修羅に生きたい
最近『numbers』という海外ドラマにハマっています。馬場です。挨拶適当か。
質問箱のBOTに悩まされる
最近よく質問箱をやっている。ほとんどはBOTからの質問だが、最近はありがたいことに人からの質問もあり大変楽しい。そんな中悩まされる質問がきた。
これである。すぐに『家族が無病息災であること』という答えが思いついたのだが、
あー、今日も一日無病息災だったなぁ〜
とは思わない。大体は病気になった時に、無病息災大事だな、と感じる。
幸せを実感する時ってどんな時だ?少し悩まされる。
幸せを定義しよう
では、そもそも幸せとは何なのか?もちろん、お手手のシワとシワを合わせることではない。
(この子名前あんのかよ、、、、当たり前か。)
まあ、お仏壇のはせがわは置いておいてとりあえずウィキペディアに頼ってみた。
幸福(こうふく、希: εὐδαιμονία、拉: felicitas、英: happiness)とは、心が満ち足りていること。幸せ(しあわせ)とも。人間は古来より幸福になるための方法に深い関心を寄せてきた。
幸福についての考察や、幸福であるためにはどのような生き方をすべきであるか、その方法論を提示した文章・書物は、「幸福論」(eudaemonics)と呼ばれている。幸福を倫理の最高目的と考え、行為の基準を幸福におく説を幸福主義という。古典的にはアリストテレスが典型であり、近代哲学では功利主義がその典型である。
絶対どっかの宗教の人が書いたチックなものが出てきたが、それもおいておく。
大体我々の幸福観と合致しているように思われる。問題は
幸福を実感する瞬間がいつか
という質問の原点に戻る。
これは非常に難しい。一般的な経験則に基づいて考えてみよう。例えば『最近幸福だなぁ、と感じた瞬間があるか?』という風に手がかりを求めることができる。
ない。
断じて常に不幸であるわけではない。僕の生活水準は明らかに偏差値50以上、平均値以上だし、僕はそれに大いに満足している。
しかし、ふと考えても最近幸福だなぁ、と思ったことはない。
翻って質問を見ると仮定の場合でも大丈夫そうだ。ところが、これもそもそも実体験が無い以上全く想像がつかない。
例えば僕に今カワイイ彼女が居たとして、その彼女とデートすれば幸せを実感できるのか。心が満ちたりていると言えるか。
恐らく答えはNOだ。
彼女がいた時すらそんなこと思ったことはない。
心は満ち足りているべきか?
さて、恐らく質問箱の運営の女子社員がノルマで何も考え無しに作らされたであろうこの質問に悩まされてきたがまたまた原点に戻る。
僕は幸福でいたいのだろうか?いるべきであろうか?
そんな時ふと昔のバイト先の先輩とのやりとりを思い出した。最近どう?と聞かれ、僕はテストで忙しいっすwなどと何の面白みもない返しをしていた。すると、
『でも、馬場はそういう修羅場好きでしょ?』
と言われた。
確かに。と納得してしまった。
バイト先でイレギュラーが起きた時の方がやってやろう、という気がしたし、テスト期間をいかに労力無しで乗り切って、教授から単位をもぎ取ってやるかでテンションMAXになる。
そうやって、乗り切った後の日高屋や行きつけの居酒屋で食べるキムチャーハンが何より美味しかったのをふと思い出した。
だから僕にとっては幸福に生きることと修羅に生きることは紙一重なのかもしれないと思った。
きっと、常に幸福である必要ないし、これからも修羅に生きたい。
さて、だいぶ時間が経ってしまった。
テストが近いのでそろそろ筆を置かねば。
以上